|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
吉田 美彦 院長 & 美加 副院長
ヨシダ ヨシヒコ & ミカ
YOSHIDA YOSHIHIKO & MIKA |
|
|
|
中の橋クリニック |
|
|
|
生年月日:[院長]1930年9月10日 [副院長]8月11日 |
|
|
|
出身地:[院長・副院長]東京都 |
|
|
|
血液型:[院長・副院長]A型 |
|
|
|
趣味・特技:[院長]油絵(60年近く描いています)、川釣り [副院長]旅行(韓国)、英会話 |
|
|
|
好きな本・愛読書:[院長]司馬遼太郎、全集(例えば坂の上の雲) [副院長]エッセイなどの短編、林真理子、江國香織 |
|
|
|
好きな映画:[副院長]邦画(ラブレター) |
|
|
|
好きな音楽・アーティスト:[副院長]K-POP(JYJ、SE7EN) |
|
|
|
好きな言葉・座右の銘:[院長]医学は患者のためのもの [副院長]一期一会 |
|
|
|
好きな場所・観光地:[院長]尾瀬 [副院長]東京(丸の内界隈) |
|
|
|
|
|
|
|
■医師の道を志した理由と、経緯をお聞かせください。 |
|
【美彦 院長】
私の親父も医者でしたからね。ですから、親父の背中を見ていた流れといえば、流れだったんでしょうね。男の兄弟は4人いましたが、私を含めて3人が医者になり、親戚や従兄弟まで数えると医者が20人ぐらいかな、そのぐらいの人数が医者になるような医者の家系だったんですよ。私の娘も医者をやっていますからね。妻も薬剤師ですし、医療家系の医療一家なんでしょう。
医者になった経緯ですが、私は終戦直前に群馬県に疎開したんです。父親は東京で勤務医をしていましたが、当時は医者といってもお金があったわけでもなく、そのまま群馬で過ごして群馬の大学に入学しました。あの頃は医師として開業するにも、まず博士課程でしっかりと研究し、「医学博士」という称号をもらわないと難しい時代でしたからね。
群馬の大学を卒業後は公衆衛生院に勤め、寄生虫学を学びました。私が医者になりたての頃は、肺結核や寄生虫症などの患者さんが多かったんですね。ですから、そのような患者さんを助けてあげたいと思っていました。
【美加 副院長】
私は元々は外資系の証券会社に勤めていたんですが、その時、周囲にいたアメリカ人達がMBAを取ったり、全く違う学科に進むのを目にしたことで気持ちに変化が起きました。私の家は医療家系ですし、父の姿を見てきたので私もそうなるものだと思っていたのに、大学進学時には英文科に進んでしまったことに心のどこかに引っかかっていたんですね。そこで私もOLさんとしてでなく、資格をもって社会貢献出来る、一生の仕事をしてみたいと思い、医師になろうと決めました。退職後に医大に入り直し、皮膚科医(専門医)なりましたが、父と同じ内科医を考えたこともありました。ですが、皮膚科医は女性としての立場で活かせることが多いですし、「皮膚をみて全身を診る」というように、皮膚科から全身的な疾患がわかることもあるんです。内科の診療の一助にもなれますから、父と連携を取って診療が出来ることを考えると、皮膚科で良かったと思っています。 |
|
|
■医療に携わる者として常日頃、思っていること、心がけていることをお聞かせ下さい。 |
|
【美彦 院長】
医学というものは、受ける患者側のためのものだと理解しています。今の医学を見ると、若い先生たちは色々な考えをお持ちですが、私はね、医療というものは患者さんがあって成り立つものであって、患者さんを中心にして考えていくものだと思っています。患者さんがいるから「医者」という職業があり、我々は活動し、生活しているんですからね。言うなれば、患者さんに対しての「奉仕の心」だと捉えてもらえればいいんでしょうかね。
患者さんのために我々が治療をしますね、それに対しての報酬とは患者さんの回復、元気になる姿を見ることが我々医者にとっての最大の報酬だと考えています。簡単に言うと、心の報酬と言うことですね。
もとはドイツ医師のフーフェラントが書いた「医師の義務」を、江戸時代の緒方洪庵(医師・蘭学者)が抄訳したものが「扶氏医戒之略」なんですが、ここには「医師というものは自分の報酬を期待してはいけない、患者さんを治すことが我々の最高の報酬なのだ」といったことが書かれているんです。まさに、これが私の医者としての根本の考えですね。
【美加 副院長】
「医者と患者ではなく、自分も患者の立場で考える」ということでしょうか。自分が患者さんの立場ならどんな診察、どんな診療が良いかと考えますね。決して押しつけにならないように、そして基本的には「人助け」という職業だと思いますので、父と同じく「奉仕の心」で、微力ながら出来ることがあればという気持ちで診療にあたっています。 |
■この地に開業した理由や、今後の展望をお聞かせください。 |
|
【美彦 院長】
当時、私はこの近所で開業している先生のところでアルバイトをしていたんです。その時の先生の紹介ですね。ちょうどこの土地は私の奥さんの父、義父が持っていた土地なんですよ。当時から商店街の中の医院だけあって、いろんな患者さんたちがやってきまたものです。私は患者さんからものを学び、患者さんから勉強させてもらって、ここまでやってきたと思っていますよ。中ノ橋医院は、この土地の皆さんと一緒に成長してきたんですね。
今は娘が一週間に二回の頻度で手伝いに来てくれているので、ゆくゆくはこの医院を継いでくれればと思っているんですよ。大学卒業後はOLをしていたのに、突然医者になりたいと言い出したときには驚きましたが、今では皮膚科の専門医ですからね。開業医はいろんな患者さんを診ないとだけど、娘のように専門があるというのも良いものですね。
【美加 副院長】
普段、私は月曜日から土曜日まで他院で勤務医として働いていまして、研究日の火曜日・金曜日(午後)だけ手伝いに来ているので、父が元気なうちは父に頑張ってもらえればいいなと、思います。ゆくゆくは何らかの形で継いでいくつもりではいますので、安心してもらえればと(笑)。 |
|
■開業50年(2011年現在)という歴史の中ノ橋医院、開業当時のエピソードをお聞かせ下さい。 |
|
開業した当初、この辺は工場地帯でしたから、六価クロム(※)を扱う工場も多くてね。肺がんの患者さんも多く診ましたよ。結核もまだまだ多い頃でしたから、肺を患った患者さんをよく診ましたね。
また、この辺りはゼロメートル地帯とも呼ばれているような土地でしたから、ちょっとした大雨や嵐が来れば、床下浸水、床上浸水もありました。だから、私は医院を二階にしたんですよ(笑)。
商店街は賑わっていて、夕方には人がいっぱいで、まるで蟻が歩いているかのようでしたね。商いの人の掛け声がいつも響いていて、診療の障害になるぐらいでしたよ(笑)。
※六価クロムは発癌性物質としても扱われ、多量吸入した場合、呼吸機能を低下させ、長期的には肺がんの原因ともなる。 |
|
■最後に地域の皆様にメッセージをお願い致します。 |
|
【美彦 院長】
生活習慣関連の病気が多いですから、やはり運動を心がけて欲しいですね。江東区は水路も多く、川の周辺を綺麗にしたり、公園の設備を整えたりと、まだまだ自然の残る住みやすい地域ですからね。自然の中で体を動かし、健康に留意して欲しいですね。
長くやっているから、患者さんも何代にも渡りますよ。四代診ている患者さんもいますが、私の年を当てる患者さんはいないですね(笑)。私も元気にやってこれたけど、患者さんにも「元気に」と伝えたいですね。
【美加 副院長】
ここ、大島は子供の時から育ってきた場所ですので、「地域医療に従事する」という意味で、皆さんのお役に立てればと思います。皮膚のことだったら何でも、お気軽にご相談下さい。
※上記記事は2011.5に取材掲載したものです。
個人の主観的な評価や情報時間の経過による変化などがございます事をご了承ください。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|